BUTSUGAKU
Reseach Institute
 
物学研究会100回記念講演
Butusgaku Research Institute 
ー壊す・なくす・手放す・すー

2006.7.20 sat.


黒川雅之さんは、建築・デザイン・研究会・環境・文化・物づくりに関する実践・模索をしていらっしゃるプロダクトデザイナーの第一人者です。氏が主催する物学研究会で、私が女優として27年間考えつづけてきたことを「壊す・なくす・手放す」というテーマでお話ししました。当日は、「バラメラバ」の上映も行われました。

講演内容の詳細は以下です。

http://www.k-system.net/butsugaku/pdf/100_report.pdf
(於:デザイントープ)
     

「壊す・なくす・手放す」

蜷川有紀氏 (女優・アーティスト)

                             

●「壊す」・芝居との出会い

栄えある物学研究会100回にお招きいただきましてありがとうございます。本日は、私が俳優と して27年間考えつづけてきたこと「壊す・なくす・手放す」というテーマでお話しをさせていただき たいと思います。 私は演じるということを職業としていますが、日本に女優が生まれたのはつい100年前だったそ うです。資料によりますと、日本初の国際女優は、芸者であった川上貞奴さんという人でした。18 99年に川上音二郎一座がニューヨークに公演に行ったところ、女形の方が急逝してしまって、代役 に立ったのが川上さんだったそうです。 さて、こんな風に誕生した女優という仕事に携わっている私が、観たり演じたりしてきたお芝居の お話をしながら、本題である「壊す・なくす・手放す」について、お話できればと思います。 私が初めて観たお芝居は、私がおそらく6歳くらいのときに、叔父・蜷川幸雄が出演していた『ユ

ビュ王』でした。 ユビュ王 を岡田英次さんが。 ユビュおっ母 を叔父が演じていました。叔父は、は 大きな仮面をつけて耳だけが出ていて妙に赤かったのを覚えています。幼かった私は「おじちゃまの 耳が真っ赤だな・・・」というのがすごく記憶にありました。『ユビュ王』はアルフレッド・ジャリ という人が書いた前衛演劇で、それ以前の芝居が持っていた言語と論理を超越し、公演という形式そ のものも解体してしまうという、「壊す」ことが命題になった芝居でした。つまり私の芝居初体験 は、まさに「壊す」ということがテーマの芝居だったわけです。ただ、私は意味がさっぱりわからず に、「おじちゃまのお耳は真っ赤」ということしか覚えていませんでした。 演劇史の中ではじめて演技というものを体系化したのは、モスクワ芸術座のスタニスラフスキーと いう人物だといわれています。そもそも演劇の始まりは神様に捧げるものでした。それがだんだん王 侯貴族を喜ばせるものになり、近世に入って大衆の娯楽になっていった。その中で俳優は、しだいに セリフを言う道具の様な存在なっていってしまった。そんなときに、スタニスラフスキーは「演技は 芸術であって、表現としてすばらしい可能性があるはずだ」と言い、目の前にいかに「生々しい人 物」を創造することができるか、それこそが俳優の仕事であることを説き、しかもそれを非常に論理 的に科学的に解明していったのです。彼の影響を受けて、日本でも文学座、俳優座、民芸などの劇 団、宇野重吉さんや杉村春子さんといった俳優、そして千田是也さんといった演出家が誕生し、近代 リアリズムの演劇が興隆したのです。同じようにアメリカではエリア・カザン、リー・ストラスバー グが主宰するアクターズスタジオがニューヨークに誕生して多くの名優が生まれました。 このようなバックグラウンドをもつ近代演劇は、常に社会と密接な関わりをもちながら今日に至っ ています。例えば戦前戦後をとおして新劇は左翼運動に絡み、1960年代の安保運動の時期の演劇 人は、芝居を「運動」として捉え、既成の芝居を「壊す」べく劇場から飛び出していきました。私の 叔父である蜷川幸雄は新宿アートシアターという映画館で、唐十郎さんたちは赤テントなどの新しい 試みに挑戦していったわけです。他にも鈴木忠志さんたちの演劇、寺山修司さんの天井桟敷など、革 新的で前衛的な演劇が盛んになってきたときでした。 そして私は小学校の2年生くらいのときに、叔父が演出を手掛けた新宿のアートシアターの芝居を 見て、大きな衝撃をうけました。アートシアターは映画館ですが上演終了後に芝居をやるという新し いかたちを模索していたのです。9歳の頃には、夜10時から始まるお芝居に連れて行かれて、長蛇 の列に並んでいるお客さんたちに対して、私は叔父が次回上演する芝居のビラを配っていました。こ れは子どもの私にとっては大変な興奮の時間でした。そこで上演された芝居は『心情あふるる軽薄 さ』『四谷怪談』など、非常に刺激的で、「お芝居というのはなんて凄いものだろう!」と興奮して 観ていました。それがいままでの芝居という概念を「壊している芝居」だとは知らずに・・・。 次に感動したのが、1973年に商業演劇に移った叔父が演出した『ロミオとジュリエット』とい う芝居で、私は13歳になっていました、これは菊田一夫さんのお弟子さんであり、オペラ座で演劇 を学んだ当時(株)東宝の中根公夫さんのプロデュースでした。当初はイタリア人のフランコ・ゼ フィレッリ氏が演出する予定でしたが、ある事情によって叔父がピンチヒッターを務めることになっ たのです。叔父が初めて演出した商業演劇は、なんとも美しかった。朝倉摂さんが舞台装置、吉井澄 雄さんが照明、小峰リリーさんがコスチュームをやり、絢爛たるバロック的な芝居でした。私は「な んて美しいんだろう!」「素晴らしいんだろう!」「世の中にはこんな心を揺り動かすものがあるん だ!」と、またまた感動していたわけです。

●「壊す」:女優になるまで

 当時、私は芝居を観ることは好きでしたが、女優になろうとは思っていませんでした。
美術の先生に刺激を受けていた私は、ものを作り上げることのすばらしさや自由さを教えてもらって、
絵描きになりたいなあと漠然と考えていました。そんな平和で退屈な学生生活を送っていた私に、つかこうへ
い版ロックオペラ『サロメ』の主役公募という雑誌記事が目にとまりました。そこで母に募集の話を
したところ、「『サロメ』は素晴らしい作品よ。」ということでした。さっそくオスカー・ワイルド
原作の『サロメ』を読み、この役をぜひやってみたいとオーディションを受けました。本名(水野さ
つ子)での応募だったのですが、なぜかとんとん拍子に受かってしまいました。審査員はつかこうへ
いさんの他、美術の石岡瑛子さん、音楽監督の酒井政利さん、音楽の三枝成彰さんほか、宇崎竜童さ
んと阿木曜子さんなど素晴らしい方々が私を選んでくださいました。
 そして私はサロメを演じることになりましたが、公演サイドは、私が蜷川幸雄の姪であることは
まったく知りませんでした。そしてそのことをお話しすると、叔父が蜷川幸雄であることはマスコミ
に伏せるように指示されました。ところが叔父は大喜びして、雑誌記者にいってしまい、ついでに私
が制作発表の時にどんな挨拶をしたらよいかを相談すると、「たかが芝居だから軽い気持ちでやりま
す!」と言いなさいといいました。私は幼かったので妙に正直に、記者会見の席で本当にそう言って
しまったのです。「たかが芝居だから軽い気持ちでやります!」と。それで、現場では大変なことに
なりました。つかこうへいさんも大変怒ってしまいました。
 半年間、過酷な稽古が続いたのですが、本当にあまりのショックで喘息が治るくらい大変でした。
私は耽美的な芝居をイメージしていたのですが、稽古場で最初につかさんがおっしゃったのは、「は
い、サロメのセリフを言いながら、そこからこの田んぼの畦道を歩いて来て、肥溜めに落っこちて、
そのあとここで農夫に犯されてくれ!」だったわけです。17歳の私はどうやったらいいのかわから
ない。しかし、仕方がないので、歩いて行き、棒セリフで、ちょっと腹も立っていますし、「なぜ私
はこんな・・・」とか思いながら、いい加減に転び、農夫に犯され、ふてくされて泣いて稽古場の隅
からつかさんを睨んでいました。一方「たかが芝居だから軽い気持ちでやります」と新人女優が言っ
たというので、マスコミは大喜びで、反抗する新人女優という見出しの雑誌記事が飛び交いました。
こんな状況の中で、私は、「女優とは一体何だろう?」と思い悩みました。
 つかさんの芝居は、演劇・戯曲史の中でも、「つか以前」「つか以降」と言われるほどのブームを
巻き起こしました。どういうことかと言うと、つかさんの戯曲は脚本を書かずに口立てでセリフを役
者に伝える。それをその場でエチュードみたいなやり取りを通して変えていく。役者と役がうまく
ミックスし迫真の演技になっていくのが「つか流」です。『サロメ』も本番2日前になっても、どの
シーンとどのシーンがつながっているかがさっぱりわからない。相手役が風間杜夫さんでしたが、心
配してたずねると「ああ、いつもこうだから」と言うわけです。つかこうへいさんは、私の演劇観を
どんどん壊していく。それだけでなく、私自身も壊してしまうような激しい稽古の日々でした。私は
まるで壊されたような、自分はどうしたらいいかわからないような、自分がまず女優として出来上が
る前に先に壊されてしまったような体験をしました。これは1978年のことでした。

●「壊す」:女優になってから

 これを機に、「俳優の仕事とは一体どういうものなのだろうか?」と思い、自分なりに演劇の勉強
を始めました。先述の近代演劇の祖、スタニスラフスキーのこと、彼の影響を受けてニューヨークに
アクターズスタジオを立ち上げたリー・ストラスバーグとエリア・カザンのこと。アクターズスタジ
オはその後、アメリカを代表する名優を多く輩出しています。私が思いますには、アメリカは日本の
ような伝統演劇の歴史がなかったので、逆にその文化的風土の中でみごとにメソッド・アクティング
というものが定着し、花開いていたのではなかと思います。メソッド・アクティングとは、紋切り型
の役作りを壊し、ナマナマしく豊かな役作りをするための様々なエクササイズが用意されています。
例えば、セクシーな役をやるときに、もっとイマジネーション豊かにセクシーさの本質を探るために
はどうしたらいいのでしょうか?これには典型的な「シャワー」のエクササイズというものがありま
す。全身に熱いシャワーを浴びているように水滴の1個1個を感じていくわけです。「ここがこんな
ふうに熱いんだわ」などといろいろ具体的に感じることで、自分が頭で考え、意図して出そうと思っ
ていたこと以上に豊かなものを提出できる。あるいは、深い感情を呼び起こす「亡くなった方の手」
を思い出すエクササイズにしても同様です。ひとつひとつ、そのディテールを思い浮かべることで自
分の潜在意識を刺激していくわけです。このように深い感情や感覚を呼び起こすようなエクササイズ
を通して、自分と役柄の深層をすり合わせ、一致させていく。そういう作業により、自分の既成概念
を壊して、役をより豊かなものとして創造していくわけです。これがメソッド・アクティングという
もので、大変興味深いものでした。
 私は非常に感動して、それから10年間くらい「壊す」ということが私の俳優としてのテーマにな
りました。役者というのは頭で考えて心で感じて、それを体で表す仕事なので、頭だけではだめで、
体現していかなければいけない。ところが私はたくさんの芝居をやってきましたが、その中でこのメ
ソッド・アクティングというものを実践的に使えるかというとなかなか使えませんでした。日本の現
場ではメソッド・アクティングをなかなか提供することができない。なぜかというと日本の演劇は、
アメリカと違って形や様式というものを非常に大切にするからです。演劇だけでなく、例えば小津安
ニ郎さんや黒沢明さんの映画にしても、日本人の監督は画面の中に人物をきちっと絵のように収めて
いきたいわけです。小津さんの映画などを見ていますとカメラフレームを中心に、役者の演技やポー
ズなどが本当に細かく指定されているように見受けられます。役者の演技に対する非常に細かく具体
的な支持がなされているわけです。日本の俳優は、常にこの日本独自の様式性とリアルな感情の融合
というものが要求されているわけです。私もこうした様式とナマの感情をどう融合させるべきか非常
に悩みました。
 私が様式性を「壊す」という視点で取り組んだ仕事に『仮名手本忠臣蔵』という芝居があります。
もちろんみなさまご存じと思いますが、1748年に出来た戯曲で、当時の大事件・赤穂浪士47士
の討ち入りを素材にした有名な歌舞伎です。江戸時代は、幕府の命令で芝居に実際の名前は使えな
かったので、時代を室町時代に置き換え、それぞれの固有名詞も変えて創られたのがこの『仮名手本
忠臣蔵』です。この日本人の心を永い間、とらえてきた演目を、200年以上の歳月をかけて歌舞伎
の役者さんたちが創り上げてきた演技の形を壊して、歌舞伎の台本そのままで現代劇の役者によって
リアルな芝居として上演しようという作品でした。この冒険的試みの芝居を演出・蜷川幸雄で神戸オ
リエンタル劇場のこけら落しとして三ヶ月間上演しました。

 

 私はデビュー10年を迎えて27歳でしたが、お軽というヒロインの役をいただきました。私はこ
の役を通してどうやって形を壊していったらいいのか、ナマの自分とお軽の感情をどんな風に深い部
分で一致させていくかいろいろ考えました。渋谷にいる若者のように走り、勘平と恋に堕ちる。とこ
ろが恋人は主君の一大事に逢い引きをして駆けつけることができなかった。この人が忠義を尽くすた
めには、自分が身を売ってもかまわない。勘平さんは、どんなに悔しかっただろうか、悲しく辛かっ
ただろうか・・・そんな感情をとことん掘り下げて、フレッシュなものとして提出するにはどうした
らいいのだろうか?結局は、一番根っこにあるものを明るみに曝すことにより、形を「壊す」という
作業でした。この公演は、3年後に帝劇でも再演され絶賛を浴びました。私としては役者としてこの
芝居に参加できたことを非常に幸福に感じました。

●「なくす」:自分をなくすことで知る個性

 もう1つ私が好きな芝居に『にごり江』があります。一夜のうちに3人の女たちが青春を葬るとい
うテーマなのですが、私が演じた役は、その中の『十三夜』のおせきという役です。夫の精神的な暴
力に耐えかねて父親のところに十三夜の夜に帰って来ると、父親から「同じ泣くならなぜ子供の親と
して泣かないのだ。ここに帰って来たって泣くだろう。うちにいたって泣くのだったら、子どもの親
として泣きなさい」と説得され、「わかりました。私の身はもうないものの、私の魂が生きて、あの
子を守るかと思えば、100年が200年でも辛抱してまいれます」とおせきは言います。つまり
「これからは自分をなくして生きていきます」と言うわけです。この自分を「なくす」というのは、
どういうことかと長い間、考えました。俳優の作業としても大きな意味があるように思ったわけで
す。
 自分自身をなくす。俳優としては、この「なくす」という行為は、悲しいことではなくて、面白い
作業だと思いました。私も自分の個性とは何か?と若いころから悩んでいました。俳優は自意識が増
殖してどんどんフォアグラのように膨れ上がっていく職業なので、そういう部分も相まってか、自分
をなくす、自分をタマネギの皮を剥くようにどんどんなくしていったらどうなるのだろうと考える。
もちろん実践の芝居の中でやるわけです。ところがなくしていったときに、なくならないんです。最
終的なものはなくならない。なくしたいと思ってもなくならない。なくして、なくして、なくして、
その一番奥にあるものこそが個性なのではないか、ということに気がつくわけです。長い間、私は個
性的でありたいと悩んでいたのですが、自分自身を「なくす」ということ、なくしたことによって初
めて見つけることが出来る豊かなものというものに出会うことがました。

 

●手放す:女優以外の表現活動へ

 ところがこの『にごり江』という芝居の再演をしている最中に突然、演じられなくなってしまいま
した。1年間微熱が出まして、「もう芝居はやめよう」「違うこともやってみよう」と思ったわけで
す。これは、私には大変な冒険でした。なぜなら俳優はセリフ以外のことをしゃべってはいけないと

 

いう教えがあります。私は、役者は1つのセリフに全身全霊を込めなければいけないと育ってきて、
それしかやってこなかった。でもそれしかやってこなかったために苦しくなってしまった。自分がや
りたいものは一体どこにあるのだろうか?私がやりたいものは、もう私の中にしかないのではない
か?ずっと人に与えられたものだけをやっていては、私は死ぬときに後悔するのではないか?
 そしてたどり着いたのが、映画創りだったのです。脚本から書き始めて、鈴木清順監督に、何か
チャンスがあったら書かせてほしいとお願いしていました。そうしたところ鈴木監督から連絡があり
まして、ウディ・アレンとかゴダールとか20人の監督がパリの1区から20区を3分ずつ撮るとい
う作品がある、そのうちの2区を撮るので、ちょっと書いてみないかというお話でした。私は3分の
脚本ならできるかもしれないと、「やらせていただきます」とお返事しました。清順監督とご一緒
に、いろいろ練り直して、こうしよう、ああしようといって脚本を創ったのですが、不運にも監督が
別の作品を撮らなければならなくなってしまい、この話は流れてしまったのです。
その後、私はしばらく落ち込んでいたのですが、自分で15分に延ばして映画化しようと思い立って
監督にご相談したところ、快く了解してくださいました。蜷川有紀が短編映画を懐妊したということ
で、出産費用を出してやろう、孫の顔が見たいということで、素晴らしい方たちが応援してくださっ
て、私は『バラメラバ』という作品を監督・脚本・主演することができました。
 この作品を創っている最中は、いままで磨いてきた俳優としての技術やキャリアを手放してしまっ
てといいのだろうか?という苦しみがありました。これから皆さんに観ていただいて、面白いかな?
というのはちょっとわからないけれども、ただ評判的には、「15分間なのに妙に疲れる!」映画の
ようです。
 もちろん、もっといろんな凄いお芝居をやっていらっしゃる役者さんはたくさんいらっしゃるかと
思いますが、私は27年間「壊す」「なくす」ということを考え、行動してきたように感じます。そ
してこれからは「手放す」というテーマでいきたいと思っています。何かを抱きしめたり握りしめた
り掴んだり、そういうことだけが人生ではないんだ・・・と。握りしめたものをそっと手放してい
く。「手放す」という行為が生み出すものは何なのだろうか、これからどういうものが出来るのだろ
うか、私は楽しみに思っているわけです。手放しても何も生まれないかもしれない。それでもいい。
それでも私は手放したいと思う。大好きな詩人のポール・ヴァレリーが20年間詩作を休んだ後に書
き上げた『若きパルク』の中で、「無為の時間がつくらないものはなにもない」と言っていました。
私はこの一節を、自分自身を奮い起こさせる言葉として大事にしながら、これからは「手放す」とい
うテーマでやっていきたいと思います。何が生まれるか、皆さんどうぞ楽しみにしていただければと
思います。
 こんなことで100回記念にふさわしかったかどうかわかりませんが、私のお話を終わりにさせて
いただきたいと思います。『バラメラバ』は私の不肖の娘です。ご覧いただいた後で皆さんにお尻を
叩かれるかもしれませんが、可愛がってやっていただきたい。観ていただきたいと思います。きょう
は本当にありがとうございました。

 

■講師プロフィール
蜷川有紀/Yuki Ninagawa(女優・アーティスト) 1978年、高校在学中に、つかこうへい構成・演出ロックオペラ『サロメ』でセンセーショナルに 主演デビュー。1981年、映画『狂った果実』でヨコハマ映画祭新人賞を受賞。その後、数多くの 映画、TVでその個性を発揮。また『仮名手本忠臣蔵』『にごり江』『喜劇・帝国心の妻』などの 多くの異色の舞台で活躍。1999年、自ら企画・出演したミレニアム朗読会『失いしものへの祈 り』は、インターネット・ライブとして同時中継し好評を博す。その他、Strange&Enchanting (奇妙で優雅)をテーマに絵画、オブジェ、絵本など様々な創作活動を展開。2004年には、短編 映画『バラメラバ』監督・脚本・主演した。(2005年PARCOシネクィントにて公開)著書『バラ メラバ』小説 &DVD (東北新社)。日本文化デザインフォーラム会員。 (財)全国税理士共栄会文化財団評議員、芸術活動分野選考委員。
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