第24回 三千院仏教文化講座 2011.4.24

「桜の文化 薔薇の文化」

敬愛する故・小堀光詮御門主様にお招きを受け、京都の三千院で桜や薔薇の文化のお話と、詩の朗読をいたしました。
(於:京都/三千院円融房)

第24回仏教文化講座-2

第24回仏教文化講座-1

BY Yuki NINAGAWA

 

第24回 三千院仏教文化講座 2011.4

「桜の文化 薔薇の文化」

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 みなさまこんにちは。ただいまご紹介にあずかりました蜷川有紀です。今日は、シャクナゲの花が満開ですね。そこにまた桜吹雪も舞い散り、なんて素晴らし光景でしょう。この素敵な三千院様にお伺いすることができまして、大変嬉しく光栄に存じております。本日は、私の大好きな薔薇の花や桜の花、そして、今まで演じてきましたお芝居の話などに触れながら、ときおり、朗読なども織りまぜて、皆様と楽しい時間を過させていただきたいと思います。

 

 先ほど御門主さまからご紹介がございましたとおり、私は、長い間、女優業をしてまいりました。十七歳の時に三千人の応募者の中から選ばれ、オスカー・ワイルドの『サロメ』という舞台でデビューしました。このサロメは、とても怖いお姫様で、大好きな人にキスをしたいのですが思うようにならず、王様に「あの人の首を下さい」と、お願いします。そして、その首にキスをする、といった非常に耽美的な作品のヒロインです。私は、その役をどうしても演じてみたかったのです。舞台のお稽古は大変で、それまでは、女優は美しく着飾り、素敵な女性を演じるものだと漠然と思っておりましたが、演じるということはそういうものではない。人間の心の奥の奥の奥にあるものを、たとえそれが醜いものであろうと恐れずに表現していく。そういった仕事なのだということに気付きました。

 そして「人の心は宇宙全体よりも広い」という言葉に、出逢いました。素敵な言葉ですよね。私はその「人の心の宇宙」を旅して「この人はこういう時にはどんなことを考えるのだろう、どんな時に歓び、どんなことに心を砕き、どんな夢を抱いているのだろう」ということを頭で考え、心で感じ、体で表現することが演じることなのだと知りました。さらに、もっと素敵なことに、お芝居というのは、多くの場合一人で行うものではありません。普通は相手役がいます。そして、その相手役にも同じように心の宇宙があるんですね。自分の宇宙と、相手の宇宙とが出会った時に、そこにまた違う宇宙が広がるわけです。それが演じるという事のもっとも面白い部分でした。私は演じることが大好きで、また、いろいろな役にも恵まれました。

 

 『サロメ』の後には、真田広之さんの初めての主演映画『忍者武芸帖・百地三太夫』で相手役の「おつう」というヒロインを演じました。これが私の映画のデビュー作です。京都太秦の撮影所や、比叡山でもロケをいたしました。また、南座にも毎年のように出演させていただき、祗園の宿に長く逗留しまして、雪、桜、蛍、祇園祭、紅葉など、すばらしい風情を体感し、日本の文化の奥深さに出逢うことができました。暗闇の美しさや、はかない香りの高貴さを感じることができるようになったのも、京都のお蔭です。南座に出演しなければ味わうことのできない素晴らしい体験でした。

 

 その他にも沢山のドラマや映画、舞台に出演しましたが、時間がたつにつれ、今まさに自分が感じたり考えたりしていることを、もっとダイレクトに表現したいという思いが深くなりました。演じるという枠にとらわれない活動をしたくなったのです。それで、女優業をお休みする決心をして、まず手始めに短編映画を作りました。「薔薇」「女」をモチーフに色々と考えておりましたら「バラメラバ」という回文を思いつき、薔薇の怪獣のようなイメージの女性が過去に向かって旅をする物語が出来上がりました。自分で脚本・監督・主演をつとめました。

 さらに、もっと表現したいという思いが薔薇という形で私の中から溢れてきました。そこで、日本画家の武田州左さんに岩絵具の使い方の指導を受け、薔薇の絵をたくさん描きまして、個展を開催しております。(今日、私が身につけております帯ですが、この薔薇も私が描いたものです。) 岩絵具という画材は、鉱物や貝などを砕いたり焼いたりしてできているものです。自然で出来ている日本古来の画材なので、優しさの中にエネルギーがあり、描いていて本当に気持ちがよく、癒されています。アトリエで海を眺めながら絵を描いていますと、肩甲骨のあいだ辺りから手が、ブワーッと千本ぐらい出てくるような幸せを感じました。

 

 それで、今日もいらして下さいました天台宗の市原孝壽大僧正様に、そういう気持ちになることをお伝えしましたら、大僧正様が
「有紀ちゃんは、子年生まれかい?」
と、仰るんです。実際、私は子年生まれなのですが、
「守り本尊の千手観音さまに守られているんだね」
と言われまして、そういうこともあるのかしら?と吃驚きました。

 苦しいこともありましたが、大好きだった女優業をお休みすることは、私にとって手を一本もぎとられてしまうくらい辛い経験でした。しかし、それを乗り越えて思い切って次の道に進みましたら、今度は手が千本ぐらい出てくるような感覚になれるなんて、不思議ですし、嬉しくて、感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 そんな私が、毎日描いている薔薇の花の魅力を、これから少しお話しいたしましょう。
薔薇という花は、四千万年も前から地上に自生しているようです。絵画作品としましては、三千六百年前のギリシャ、クレタ島の遺跡から薔薇の壁画が発掘されています。日本でも古くから自生しており、万葉集にもウバラといった名前で詠まれています。また、日本古来の薔薇は八重咲きではなく、一重咲きだったようです。
 薔薇の花は、昔から多くの人を魅了してきました。有名なところではクレオパトラが恋人を迎える時に、膝の高さまで薔薇を敷き詰めて出迎えたというエピソードが残っています。またナポレオンの皇后・ジョセフィーヌは、薔薇の品種改良に貢献し、宮廷画家に多くの薔薇の絵を描かせました。薔薇は花の中心に近い部分にまで、ぎっしりと花びらが重なっています。その花びらの奥に、多くの詩人が「謎」「秘密」が隠されているといったイメージを感じたようです
私は、薔薇というと「赤」というイメージが浮かびます。赤い薔薇は、恋人に愛を伝える大切な小道具でもあります。ところが赤い薔薇は、もともと西洋にはなく、中国や日本の薔薇を西洋の薔薇と交配させてはじめて出来あがったそうです。それ以前は、ピンク色の薔薇が中心だったようで、ラテン語で “rosa ”という言葉は、「ピンク色」という意味だそうです。

 

 さて、日本において薔薇が文学作品に多く登場するのは、明治以降です。
佐藤春夫さんや北原白秋さんなども、薔薇を題材にした素敵な文章を発表されています。
それでは、ここで北原白秋さんの詩を朗読いたします。

 

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「薔薇二曲」

薔薇ノ木ニ

薔薇ノ花咲ク。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

薔薇ノ花。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

照リ極マレバ木ヨリコボルル。

光リコボルル。

 

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 美しさが溢れてくる、花に対する想いが溢れてくる、そんな感動が伝わってまいります。

 また、リルケの墓碑銘には

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薔薇よ おお 清らかなる矛盾よ

誰が夢にもあらぬ眠りを

あまたなる瞼の陰に宿す

歓喜よ

 

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と、刻まれています。ここにある「矛盾」とは、どういうことでしょう?薔薇には、棘があります。これは、薔薇の花と桜の花の大きなちがいですね。獣の爪のような鋭い棘、それなのに花びらは、あくまでもビロードのように柔らかい。この大いなる「矛盾」が、薔薇の最大の魅力なのかもしれません。
 それでは次に、私が大好きなサン・デグジュペリの『星の王子さま』(内藤濯訳)のなかから、薔薇のエピソードの部分を朗読させていただきます。

 

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王子さまのその花は、ある日、どこからか、飛んで来た種が、芽を吹いた花でした。(中略)大きなつぼみがこしをおちつけているのを、はたで見ている王子さまは、いまにあっと言うほど美しいものが、見えてくるように思えてなりませんでした。でも花は、緑のへやにじっとしていて、なかなかけしょうを止めません。どんな色になろうかと念には念を入れているのです。(中略)なかなかのおしゃれだったのです。そんなわけでふしぎな化粧はいく日もいく日もつづきました。

ところが、ある日の朝、ちょうどお日様がのぼるころ、花はとうとう顔を見せました。
なにひとつのておちなくけしょうをこらした花は、あくびをしながらいいました。

「ああ、まだねむいわ……。あら、ごめんなさい。あたくし、まだ髪をといていませんから……」
王子さまは、そういわれ <ああ、美しい花だ> と思わずにはいられませんでした。

「きれいだなあ!」

「そうでしょうか」花はしずかに答えました。「あたくし、お日様といっしょに生れたんですわ」
王子さまは、この花あんまりけんそんではないな、とたしかに思いましたが、でも、ホロリとするほど美しい花でした。

「いま、朝のお食事の時刻ですわね。あたくしにもなにか、いただかせてくださいませんの……」

王子さまはどぎまぎしましたが、汲みたての水の入ったジョロをとりにいって、花に、朝の食事をさせてやりました。

花は咲いたかと思うとすぐ、自分の美しさをにかけて、王子さまを苦しめはじめました。それで王子さまはたいへんこまりました。たとえばある日のこと、花は、そのもっている四つのトゲの話をしながら、王子さまにむかってこういいました。「爪を引っ掛けに来るかもしれませんわね、トラたちが!」

「ぼくの星に、トラなんかいないよ。それにトラは、草なんか食べないからね」と、王子さまは、あいてをさえぎっていいました。

「あたくし、草じゃありませんのよ」と、花はあまったるい声で答えました。

「あ、ごめんね……」

「あたくし、トラなんかちっともこわくないんですけれど、風の吹いているのがこわいわ。ついたてを、なんとかしてくださらない?」(中略)「……ここ、とっても寒いわ。星のあり場が悪いんですわね。だけどあたくしのもといた国では……」
花はこういいかけて口をつぐみました。もといたといっても、花が、いたのではなくて、種がいたのでした。ですから、ほかの世界のことなんてしっているはずがありません。思わずこんなすぐばれそうなウソをいいかけたのが恥かしくなって、花は、王子さまをごまかそうと思って、二、三度せきをしました。

 

「ついたては、どうなすったの」

「とりにいきかけたらきみがなんとかいったものだから」

すると花はむりにせきをして、王子さまをすまないきもちにさせました。
そんなしうちをされて、ほんきで花を愛してはいたのですが、すぐに花の心をうたがうようになりました。花がなんでもなくいったことをまじめにうけて、王子さまは、なさけなくなりました。
ある日、王子さまは、僕に心を、うちあけていいました。

「あの花の言うことなんか、きいてはいけなかったんだよ。(中略)ぼくの花は、ぼくの星をいいにおいにしてたけど、ぼくは、すこしもたのしくなかった。あの爪の話だって、ぼく、きいていて、じっとしていられなかっただろ。だから、かわいそうに思うのがあたりまえだったんだけどね……」

 それからまた、こうもうちあけていいました。「ぼくは、あの時、なにもわからなかったんだよ。あの花のいうことなんかとりあげずに、することで品定めをしなけりゃあ、いけなかったんだ。ぼくは、あの花のおかげでいいにおいにつつまれていた。明るい光の中にいた。だから、ぼくは、どんなことになっても、花から逃げたりしちゃいけなかったんだ。ずるそうなふるまいはしているけど、根はやさしいんだということをくみとらなきゃいけなかったんだ。花のすることったら、ほんとに… …とんちんかんなんだから。だけど、ぼくは、あんまり小さかったから、あの花を愛するってことがわからなかったんだ」

 

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いかがでしたか?私は、子どもの頃からこの薔薇のお話が大好きでした。

サンデグジュペリ生誕百年の際、彼の妻コンスエロが書いた『薔薇の回想』という回顧録が出版されました。彼女は綺麗な女性でしたが、それにも増してとても激しい性格で、二人はくっついたり別れたりを何度も繰り返しました。その回顧録を読んでみましたら、サンデグジュペリの意外な部分に触れることができ、この薔薇のエピソードがとてもよく理解できました。

 このように薔薇という花は、現実の女性をイメージさせるようで、実存する女性の名前が多く付けられています。イングリット・バーグマン、ダイアナ、プリンセスミチコ等々。イギリスでは、薔薇は花の女王といわれていますし、「愛情」「情熱」「現世の喜び」などを象徴しているように思われます。

 これとは対照的に「幽玄」「死」「無常観」などを象徴している花があります。今日も三千院様のお庭に咲いております桜の花です。私は日本人なので桜の花の姿が心に染み入ります。桜はバラ科の植物で、日本に数百万年前から自生しているそうです。もともとは山桜なのですが、ソメイヨシノ等、多くの品種に改良されてきました。

 

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ひさかたの 光のどけき春の日に

しづ心なく 花の散るらむ  (紀友則)

 

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願わくば 花の下にて 春死なん

その如月の望月の頃    (西行法師)

 

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など、多くの和歌の題材にもなっています。
桜の花の時期になりますと、毎年、母と二人でお花見にまいります。ある年、埼玉県の見沼浄水という疎水で、素晴らしい花筏を見ることができました。頭上にも桜、水面には花筏、その中を母がひとり静かに歩いている。この世の光景とは思えないような一面さくら色の情景は、まるで古事記に出てくる「黄泉比良坂」のようでした。この世とあの世を繋ぐ坂道には、桜の花があんなふうに咲き乱れているのかもしれません。そうです。桜の花は無限の情緒へ私たちをってくれるようです。

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清水へ 祇園をよぎる 桜月夜

こよひ逢ふ人 みな美しき (与謝野晶子)

 

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これは、私がもっとも好きな桜の歌です。花のおかげで自分の心が浄化されているので、出逢う人出逢う人がみな美しくみえる。桜を眺めていると此の世に生きていることの素晴らしさに酔いしれることができるのです。しかし、美しい桜の花を見て。このような怖しい文章を残した人もいます。


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桜の樹の下には屍体が埋まっている! これは信じていいことなんだよ。


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という衝撃的な文章で始まる梶井基次郎の『桜の樹の下には』は、もうそれ以降、桜を題材にした文章が書けなくなってしまうほどの影響を、多くの作家に与えたようです。
また歌舞伎の世界では、桜が舞台背景によく描かれ、鬼や妖怪などに変化していくお話がたくさんあります「美しいもの」「怖しいもの」が壮絶に絡み合い、此の世のものとは思えない不思議な世界を創造していく。桜の花は、今も昔も私たち日本人の感性に大きな影響を与え続けているのです。
 それでは、ここで坂口安吾の『桜の森の満開の下』の一部を朗読いたします。この物語の主人公は山賊です。女房が七人いるのですが、八人目の女房を奪ってきた時にその女から「今までの女房たちを殺してくれたら、お前の女房になってあげる」と言われて、しかたなく山賊はその通りにします。常々「いつか満開の桜の木の下に独り座ってみたい」と思っていたこの山賊は、山の生活が好きだったのですが、新しい女房の我儘に付き合って都に出て来ます。しかし、「やっぱり山がいい」というわけで、山に帰ろうとします。すると、女房も「一緒に帰る」と言い出します。美しくて我儘なこの女房を背負って、山賊はようやく桜の木の下にやって来た、という場面からお聞きください。

 

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 桜の森が彼の眼前に現れてきました。まさしく一面の満開でした。風に吹かれた花びらがパラパラと落ちています。土肌の上は一面に花びらがしかれていました。この花びらはどこから落ちてきたのだろう? なぜなら、花びらの一ひらが落ちたとも思われぬ満開の花のふさが見はるかす頭上にひろがっているからでした。
 男は満開の花の下へ歩きこみました。あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。彼はふと女の手が冷めたくなっているのに気がつきました。俄かに不安になりました。とっさに彼は分りました。女が鬼であることを。突然どッという冷めたい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。

 男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、ちぢくれた髪の毛は緑でした。男は走りました。振り落そうとしました。鬼の手に力がこもり彼の喉にくいこみました。彼の目は見えなくなろうとしました。彼は夢中でした。全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。その手の隙間から首をぬくと、背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。今度は彼が鬼に組みつく番でした。鬼の首をしめました。そして彼がふと気付いたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、そして女はすでに息絶えていました。

 彼の目は霞んでいました。彼はより大きく目を見開くことを試みましたが、それによって視覚が戻ってきたように感じることができませんでした。なぜなら、彼のしめ殺したのはさっきと変らず矢張り女で、同じ女の屍体がそこに在るばかりだからでありました。

 彼の呼吸はとまりました。彼の力も、彼の思念も、すべてが同時にとまりました。女の屍体の上には、すでに幾つかの桜の花びらが落ちてきました。彼は女をゆさぶりました。呼びました。抱きました。徒労でした。彼はワッと泣きふしました。たぶん彼がこの山に住みついてから、この日まで、泣いたことはなかったでしょう。そして彼が自然に我にかえったとき、彼の背には白い花びらがつもっていました。

 そこは桜の森のちょうどまんなかのあたりでした。四方の涯は花にかくれて奥が見えませんでした。日頃のような怖れや不安は消えていました。花の涯から吹きよせる冷めたい風もありません。ただひっそりと、そしてひそひそと、花びらが散りつづけているばかりでした。彼は始めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。

 桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。

 彼は始めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。
ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。

 彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変ったことが起ったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷めたい虚空がはりつめているばかりでした。

 

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 非常に静かな光景です。
 日本人の持っている、美意識と死生観をみごとにあらわした小説です。私たち日本人は、よく桜の下でお花見をして楽しんでいますが、あのお酒を飲んで大騒ぎしている一人一人の心の奥にも、もしかしたらこういった感覚があるのではないかと私は思います。「死」「無常」「寂」これが桜の文化といいましょうか、この花の精神性なのでしょう。薔薇の花が象徴するものとずいぶん違いますね。

 

 私はいま、薔薇の花を沢山描いています。しかし、この桜という花を描くには、まだ修行が足りない。今は「喜び」「楽しさ」そして、怖しいことも沢山あるけれど、それでもやっぱり「現実は素晴らしい!」そんな思いを、薔薇の花にたくして描いてみたいと考えております。

 

 三月十一日の震災で、大きく時代が変わろうとしていますが、本日お話しいたしました薔薇の花や桜の花に魅了されることは、けっして無意味な逃避ではありません。むしろ美しいものに感動する心、自然にたいする畏敬の念をあらたにすることこそ、私たちの未来を明るく輝かせるためのキーワードになるのではないでしょうか?私は、そう強く信じております。

 みなさま、本日は有難うございました。

 

2011年4月24日  蜷川有紀

 

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