『花鳥都市』によせて              蜷川有紀

 私は、思い浮かべる。戦後・廃墟と化した都会を父と母が静かに、哲学や詩や美しい雲の話をしながら歩く姿を‥‥。父は母に廃墟に咲いている花の名前を教えてくれる。「あれがフォルフォックス、立葵の花だよ。」崩壊した市街を、鳩が群をなして飛んでいく。『花鳥都市』の原型である。父がたった一冊の詩集を残して「がらんとした未来都市」に旅立ってから、あるいはそのずっと前からかも知れないが、たくさんの苦しみや悲しみが母を襲ったことだろう。しかし、そのたびに彼女はフェニックスのように甦った。彼女の精神は、いつだって不思議なぐらい美しく軽やかに空に舞い上がる。そして鋭い視線で地上を見おろす。「ユーモアと毒」それが彼女の信条である。そして、彼女はいう「毒がなければ、毒を制すことはできないわ」と。そんな母・水野麗の俳句の中で印象的な句をいくつか紹介したい。

よろこびを婢女とよべ夏が来る

 謎めいた句である。「よろこびを婢女と呼べ」とはいったいどういう意味だろうか?よろこびとは、誰もが愛する素晴らしいものではないのか?その答えは下五句に隠されている。「夏が来る」という言葉から悠々とした入道雲が思い浮かぶ。素晴らしい雲。果てしない空。すると見えてくるではないか、雲の向こうからたくさんの戦闘機が、夥しい屍が‥‥。「私は決して、通俗的なよろこびに身をやつしはしない。私は忘れない。あの苦しみを、あの悲しみを!」作者の悲痛なまでの宣言がここにある。そしてこれこそが、その後の水野麗の作品の立ち位置となる。

花ざかり酌めども毒杯とはならず

 美しい桜の花を眺めながら酒を酌み交わしている。いまこのまま、毒をあおって死んでしまえばどんなに素晴らしいだろう。あるいは、いまこのまま毒を盛ってこの人を殺してしまいたい。しかし、現実には酌みかわす杯は、決して毒杯になることはない。私たちは生きていかなければならないのだ、幻よりも美しく、悪夢よりも怖ろしいこの現実を。

川は海へ走りつづける少年も

 川沿いの道を走っていく少年の姿から五月の明るい陽ざしが見えてくる。川が海に向かっていくように、少年の未来もキラキラと美しく輝いて見える。ある日、母の部屋を訪ねたとき、この句が飾ってあったのを見て、痛く感動した。豊かな愛情溢れる句である。

人體てふ喪服の下や花畑 

 人体という喪服の下には、果てしない花畑がある。それを人は精神あるいは想像力という名で呼んだりする。因習、常識、辛苦という名の黒い服を脱ぎ捨てると、そこにあるのは、見事なまでの花畑。私たちの肉体は、限りなく現実に隷属している。しかし「私の精神は私だけのもの。誰にも犯すこはできない」という、作者の声が聞こえてくるようだ。

 水野麗の俳句の魅力は、強さと弱さの絶妙なバランスにある。一見やさしく見える句の中に、隠された苦悩や喪失感を読みとらなければそれぞれの句の本当の意味は見えてこない。また一見、抽象的に見える作品のなかに、ある日ある瞬間の彼女の心象があざやかに造型されていることを見落としてはならない。コクトーは、「美は愚劣に自然を再構成することを嫌う。」という言葉を残している。彼女の俳句は、ひとつたりとして自然を愚劣に表現しているものはない。
 最後に近年の作品、三句を紹介して締め括りとしたい。

背を押され来て360度花野

誘われて苦もなく花野超特急

 二句とも彼女がたどりついた心の境地である。背を押されるように生きてきて気がつけばまわりじゅう花がさきみだれている野原にいるような日々を過ごしている。そして花野超特急が辿り着く先は、あの世かも知れない。こころおだやかに苦もなく何処にでも行きましょう。恩寵に満ちた日々。さまざまな喪失、絶望から解放された軽やかな美しい二句である。

テロありと聞きし深夜のジャスミン浴

 心おだやかに過ごす日々の中、テレビから流れるテロの報道。きっとセプテンバーイレブンのニュースにちがいない。遠い日々、自分が味わった絶望をいままさにこの瞬間に味わっている人間たちがいる。その報道を聞きながら、なすすべもなくジャスミンの香りのするバスタブに身を沈める。作者の透徹とした精神にふれることができる一句。

『花鳥都市』とは、まさに母がたどりついた心の境地である。だからこそ、私はこの句集を上梓できたことを心から嬉しく思っている。

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