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2001年に鈴木清順監督から6分間の短編の脚本を依頼された。『paris je'tame』というパリの1区から20区までをウッディ・アレン、ジャン・リュック・ゴダール、ファニー・アルダンなどそうそうたる面々ががそれぞれの区の物語を紡ぐというもの。清順監督は、2区を担当する予定だった。「女が水の中を旅するお伽話を書いて欲しい」「女と老婆と赤ん坊を出演させて欲しい」とのこと。「6分間ならできるかもしれない」と初めて脚本に挑戦した。
しかし、諸々の事情から、その映画は実現しなかった。
1年後、とある若者達に呼び出され、「有紀さん、あの映画を創りましょうよ!」と持ちかけられた。「あなた達何をしてくれるの?」とたずねると、「僕らポスターとTシャツを創ります」などと言ってニコニコしている。まあいいか!企画書をつくった。清順監督に「15分に延ばして自分で監督してもいいでしょうか?」とおたずねすると、「自分で書いたんだから自分で創ったらいいですよ」と許可をいただく。そして偶然にも、若い頃、ゴダールを輸入する会社をやっていたという黒川紀章氏の応援を得ることができた。それがこの映画の製作のはじまりだった。(バラメラバDVD&BOOKより抜粋)


2001年5月、「バラメラバ」の前身となる「パリ・ジュテーム」-Paris2区-イメージポエム執筆。
2001年7月、-Paris2区-検討稿完成。
2002年7月、小説「バラメバラ」執筆開始。(榎本了壱氏主催「かいぶつ句集」8号から約一年半、9回連載)
2003年8月〜10月、改訂稿執筆。
2003年12月、ロケーション・ハンティングはじめる。スタッフ/キャストの決定。
2004年1月26日、蜷川有紀の監督・脚本・主演でクランクイン!


2004年1月26日、熱血演出中の蜷川有紀。演出プランを聞くビデオエンジニア平金聡一郎さんたち。六本木ヒルズPRのご協力で美しい町並みを彷徨う女のシーンを撮影。この日から5日間の撮影がつづいた。

  ※助監督佐高美智代と制作・田中美奈子がみつけてきた素敵な横浜にあるトンネルで撮影。横浜フィルムコミッションさんのご協力で女が街を彷徨うシーンなどを撮影。
  ※名カメラマン前田米造氏、照明・矢部一男氏ら素晴らしい撮影チーム。早業の矢部さん、どんなことがあっても慌てない前田さんの最高のコンビ。左の写真は、ラストシーン撮影風景。冬の陽炎をガスバーナーをつかってつくっているところ。
  ※東日本橋応援団、茶美の会、あそう会、蜷川幸雄氏からたくさん美味しい差入れが届く。左の写真は、墨田川沿いの桜橋付近で夕食をとっているところ。叔父からの差入れラーメン屋台は、このあと装飾を施され、美術として使用した。
  ※2004年1月30日、あと数時間でクランプアップ。ホッとして最後の打ち合わせをするプロデューサー片嶋一貴氏と、離れて電話中のエグゼクティブ・プロデューサー小椋悟氏。

2004年1月30日、クランクアップ。

2004年2月、編集作業。ナレーション録り。アフレコ。その他、仕上げ作業。

2004年3月完成。

2004年5月、カンヌ映画祭、スクリーニング。(ショートフィルムコーナー及びマーケットスクリーニング)

2005年3月〜5月、「バラメラバ」小説&DVD、執筆及び制作。

2005年5月28日、渋谷PARCOシネクィントにて上映
(同時上映/レイコ・クルック「炎」、トークライブ/嶽本のばら+レイコ・クルック+蜷川有紀)